よく、偉人や著名人の名前を文章中に乱発する書き手がいる。というより、哲学や思想の分野でものを書く人たちの99%がそういう類ではないかと思う。しかし、人名を用いることによるレトリカルな効果について反省した文章に、私はまだ出会ったことがない。
シンプルな例を考えてみよう。次の三つの文章を比べてほしい。
(1)現存在が真正現存在であるのは、死へ臨む存在という様態においてである。
(2)ハイデガーは、現存在は《死へ臨む存在》という様態において初めて自己を獲得する、と考えた。
(3)人間は自分の死と心から向き合ったときに初めて自分らしく生きることができる。
まず(1)からみてみよう。「現存在」「真正存在」「死へ臨む存在」「様態」という言葉が、ハイデガーをしっかり読んだことのある人にしか理解できないものとして羅列されている。つまり、これらは専門用語として機能している。ただし、ハイデガーという名前は出ていない。大半の読者は、「何が言いたいのかわかりません」と思いつつ、黙ってこの一文を通りすぎるはずである。
それでは、(2)はどうだろう。文体自体は(1)とほとんど同じだが、今度はハイデガーの名前が出ている。名前が入ると、文章の受け取られ方もガラリと変わる。というのも、以前は「意味不明」で終わっていた文字の羅列が、「深遠な哲学者の意味深な言葉」として読まれうるからだ。ハイデガー。ドイツ系の名前で、なんかちょっとかっこいい。高名な批評家や思想家も高く評価する哲学者だそうだ。読者であるあなたは、今すぐに意味はわからなくても、ハイデガーの言わんとすることが何かについて興味を持つだろう。しかし、『存在と時間』を図書館でみつけて読んでみても、ハイデガーの言いたいことがわかるどころか、ますますわけのわからない言葉が増えていく。第2部に到達する前に、あなたは混乱の臨界状態に達して読むのをやめてしまう。そうだ、でもハイデガーを扱った解説本や、ハイデガーを引用した現代思想の本とかを読んでみたら、ちょっとはわかるんじゃあないか。そう思い立ったあなたは、今度はそういう本を探し出して読み始める。すると、日本の批評家が書いたセクシーな文章が、ハイデガーの名前を使いつつ、とってもわかりやすく論を展開している。あなたは、ついに自分にもあの深遠なドイツ人哲学者のいわんとすることがわかった、と喜びを感じる。誤解と言われてもいい。なぜって、あなたの読んだその思想書には、そもそも読解とは誤読である、とも書かれているのだから。
(3)に話を進めたい。さきほどのシナリオの延長線上で考えてみよう。あなたはハイデガーの文章がついに理解できたことに喜び、その喜びを仲間と共有したいと感じる。そこで、大学一年生以来の旧友と久しぶりに、週末に近所の小さな居酒屋で待ち合わせをする。あなたは、ハイデガーの根源的存在論における死の問題について、友人に話す。もちろん、自分の言葉でではなく、思想書からの引用によって。相手に伝わっているかどうかは問題ではない。20分も話し続けた後、あなたはこう締めくくる。「…という感じなんだけど、どう思う?」 友人はこう答える。「それってつまり、人間は死と向き合ったときに初めて自分らしく生きられる、ってことが言いたいんでしょ?」あなたはまた混乱してしまう。ちがう、そんな陳腐な言葉では表現できないような深遠な思想がここにはあるのだ。そもそも、「人間」や「自分らしさ」というような通俗概念は、ハイデガー哲学の入り口ですでに切り捨てられるような程度のものじゃあないか、とあなたは思う。「ちがうちがう、そういうことじゃないんだよ、だからつまりね…」こうして、2人はコミュニケーションがとれないままビールを飲み干し、家路につく…
偉人の名前を哲学の文章に入れることの効果は、つまり以上のようなものだと思う。読者を魅了し、読者の頭の中の批判的な部分を麻痺させ、意味不明な言葉や矛盾した論理をあたかも当然のごとく読者に受け入れさせる。もちろん、有名な哲学者への興味が哲学を学ぶきっかけとなることは全く問題ない。問題は、偉人を引用することから得られる快楽が、哲学研究や哲学作品の執筆の動機になってしまった場合である。
こうした動機で作品作りをする読み手や書き手は、日本の哲学・思想・批評の世界にはたくさんいる。いや、むしろ、存命中の著名な批評家や思想家たちはほぼ全員この類であると言っても過言ではないだろう。しかし、はっきり言うと、虚偽やナンセンスは、誰が言っても虚偽でありナンセンスなのだ。
私はここで、ハイデガーを意図的に例として選んだ。思想ではなく思想家に、平易な文章ではなく小難しい(しかし思想家的にはセクシーな)文章に、思想界が惹かれて続けているのは、ハイデガーの影響が大きいと思っているからである。もちろん、ハイデガー以前にも、彼のような書き方をする人は少なからずいた。しかし、日常語や日常概念を徹底的に捻じ曲げて複雑化し、普通の言葉では要約不可能な文章をキャリアを通して綴ったのは、恐らくハイデガーが初めてではないかと思う。もちろん、「初志貫徹」という四文字熟語もあるくらいだから、日本語で思想をやっていると、ハイデガーのように初志貫徹をした哲学者はむしろ敬意を表してたくさん引用し読解し続けるべきだ、という変な方向に話が行ってしまう。
私は、ハイデガーは一般読者にもわかるような形で自分の言いたいことを表現できなかった思想家である、と思っている。一般読者にとって全くわかりにくい文体を、書き手のもつオーラやカリスマ性によって無理矢理読ませようとする、あるいは、その思想家を売り出す出版社や大学などのマーケティング戦略によって読者に届ける、といったやり方は、哲学のやり方ではない。仕事の合間のいくばくかの時間を使って思想書を読もうとする一般読者も、「これが哲学であってほしくない」と思うはずである。そうして、そう思わせてしまうのはあまりにも悲しい。
もちろん、だからといって一般読者におもねるような作品を書けばよいと言っているわけではない。ただ、深い思想を表現することと、わかりやすい文章を書くこと、この両方を、哲学の書き手は同時に行うべきである、と私は言いたい。とても基本的なことだが、これをちゃんと両立できている作品に私はまだ日本の現代思想界では出会ったことがない。つまり、わかりやすく書かれてはいても、根源的な懐疑を経ていないような平板で浅はか、つまり真偽がはっきりしない思想が展開されている作品か、あるいは根源的な懐疑を経てはいても、結局偉人の名前や意味深長な言葉のもつ魔力をてこにして論を運ぼうとする作品、このいずれかである場合が多い。
残念ながら、日本の今の思想界は、偉人の名前や大きな言葉のもつ魔力を使いこなす練習を思想家の卵たちにさせている。そうしないと売れないよ、認めないよ、とプレッシャーをかけている。そして、うまくこの芸を会得した生徒には、売り上げと名声というご褒美を与える。それは哲学活動ではない。商業思想であり、ビジネスである。
年齢、性別、学歴、職業、所在地等々に関係なく、誰でもその気になれば哲学の作品を書くことはできるし、時間をかけて、自分と向き合って、自分のスタイルで自分の言葉を丁寧に紡いでいけば、誰でも素晴らしい作品を書くことが出来る。また、真に素晴らしい哲学作品を、みかけだけの作品と区別するための見識を得ていくこともできる。お手本として、まずは『プラトン全集』から始めてみてはいかがだろうか。
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